牛首紬とは

牛首紬とは
白山の麓で牛首紬と呼ばれる独特の紬が織られている。
糸に空気を含ませる独自な糸の処理で綸子のような柔らかな着心地でありながら、釘抜き紬の別名が残るほど強い織物である。
直木賞作家 高橋 治著「紺青の鈴」より

 牛首紬とは、石川県の白山の麓で800年以上の昔から伝承されている紬です。ひとつの繭に2頭の蚕さんが入った特殊な繭、「玉繭」から手挽きした玉糸をよこ糸に使用します。昔ながらの製法で手づくりされた糸から織られる生地は、気品のある光沢を放ち、身体にしっくりとなじむ着やすさで高い評価を受けています。また、紬としては珍しく、先染め製品のみではなく、後染めの訪問着、袋帯などセミフォーマルとしてお召しになれる商品までのレパートリーの広さも大きな特徴のひとつです。

牛首紬  牛首紬


山里が伝えた粋

 歴史は波動するものです。
日本の歴史の中で、最初に文化の華を開かせたのは宮廷社会でした。いうまでもなく、それが王朝文化です。時代が移り、武家が社会の表面におどり出て、新たな文化の創造者になります。その武家文化を受けつぎ、発展させ、更に深めたのが町衆でした。こうして文化は町人の手に握られ、わらわれの時代に入ります。その間、時代を象徴するものとして、絢爛と咲いた文化の華を、終始、底流として培って来たものがありました。それが人間の生活そのものを支えた山の民、海の民の知恵だったのです。自然を生かし、自然に生かされるという、動物本然、人間のそのものから発した根源的なものだといえるでしょう。それだけに、山の文化、海の文化は万古不易、絶えることのないものとして、脈々と流れ続けました。実用の美ことが最高のものだと昔から考えられて来ましたが、海と山の文化はまさにその実用を踏まえたものだったのです。ですから、時の流れは転変しても、基盤の文化が滅ぶことはありませんでした。永遠に新しい生命を持ち続ける宿命に絶えなければならなかったからです。牛首紬はその山の文化のひとつでした。材質はこの上なく丈夫で、デザインは時の流れという試練に耐えうるもの、この二つの至難な条件を充たすことで、牛首紬は最高の着物の着手たちを驚かすという成果を上げて来ました。ですから、私たちがなしとげたものは、ほんの僅かだったと、誇りを持っていうことが出来ます。古くから変わらない文化が、こうでなければならないと要求する条件をすべて充たし、現代が求めるものを、ほんの少々足したにすぎません。そうすることによって、現在の牛首紬が出来上がりました。山村の文化と伝統を頑固に守り、その粋を大胆にとり入れました。そうした作品を自信と共に皆様にお届けいたします。

(文/直木賞作家・高橋 治)

絹織物と牛首紬

 絹織物は古代中国に生まれ、シルクロードや海路を経て世界に伝えられました。以来そのやわらかで光沢のある絹織物は多くの人々の心を魅了しました。日本でも養蚕技術の伝来により、絹織物が染織文化の舞台に登場、奈良朝時代から宮廷の礼装やたしなみの衣裳として重要され、絹織物による衣装文化が確立されていきました。養蚕技術の導入によって始められた桑の栽培は、その技術が簡単なことから、次第に日本各地の農山村へも広められていきました。養蚕を始め真綿の製造、絹糸の製糸、機織り、染色等の技術は共々全国各地に広がっていきました。そして、平安期には十二単衣に代表される貴族文化で栄華を極め、その後、美服禁止令の時期もありましたが、江戸中期から後期を迎える頃には、小袖の発達と共に絹染めや織りの技術も著しく進歩し、庶民にはまだまだ高価で贅沢ながらも、錦、綾、羅、羽二重、縮緬、紬などが、江戸や京都の街に運ばれ絹文化が再び栄えていきました。白峰(旧牛首村)一帯でも古くから養蚕、製糸、機織りの技が伝えられ、繭や生糸や紬の生産が行われていました。江戸末期には玉繭や屑繭から手で紡いで織った素朴な紬が京都などで知られるようになり、やがて全国に「牛首紬」の名で親しまれていきました。そして、現在も村人により昔ながらの技術が伝承され、その製法技術は石川県の無形文化財に指定されています。

繭  絹織物

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