牛首紬のあゆみ

 平治の乱を期に織り始まったと伝えられる牛首紬の記録は、その後、白峰村を訪れた旅人等によって現代に残されています。地元で確認されている記録で藩政時代のものは「毛吹草」1643年「白山紀行」1648年「絹布重宝記」1789年「白山草木志」1822年「続白山紀行」1833年等があります。内容については白峰村にて養蚕と織物が行われ村外へ販売されていたこと、また牛首布、嶋布、牛首糸、台木布、牛首紬、釘貫紬等の固有名詞は記述されていますが、数字的なものは残されていません。明治期に入ってからの生産量は白峰村史によれば、紬織物よりも麻織物の方が多く生産されていたようです。1892年頃から麻織物業、製糸業からの転業で紬織りが盛んになり、明治末期の1909年に水上機業場が開業して牛首紬を生産、全国に訪問販売を行う新しい試みにより販路が大幅に拡大し、大きく生産量を伸ばしました。1918年、1919年2企業があいついで紬生産を開始し牛首紬産地の黄金期を迎えました。生産量も1919年1,859反、1924年6,926反、1934年12,568反と急増しました。

昭和初期頃の水上機業場
昭和初期頃の水上機業場

水上機業場の牛首紬商標
水上機業場の牛首紬商標

 


 しかし、大正期をピークに、折からの経済不況と太平洋戦争への突入が、世情に対して贅沢品であった紬の販路を極端に小さくし、急速にその生産量も縮小され、また縞紬等の先染紬も消費者の望む動向を把握できず不振を続け白紬織りに転向する等、いろいろ工夫されましたが、時勢には逆らえず次々転廃業していきました。戦後、牛首紬の生産復興に努力していた最後の機業場も1950年廃業におよび、ついに本格的な紬生産の場は姿を消し、わずかに兼業の家内生産によって伝統の技が保持されていきました。 昭和30年代(1955年)から白峰村の地場産業振興をめざす活動の一つとして新たに桑畑が造成され、養蚕に取り組む試みが始められました。そして1965年には紬工場も建設され生産量も増加、1967年牛首紬振興会も設立され、やがて社会の時流にも乗って、次第に生産体制が着実なものになっていきました。昭和53年(1978年)牛首紬技術保存会を設立、翌年石川県の無形文化財に指定、昭和63年(1988年)通産大臣(現:経済産業大臣)指定伝統的工芸品の認定を受け、更に平成19年には地域ブランドとして商標登録され、現在では全国的に知名度の高い紬となっています。

【参考资料】
大正末期頃大都市への販売ルートを開拓して好評を博した染織紬も昭和に入り需要が減じ、生産もまた退行していきました。この様子が次のように記されています。「世ノ移ルニ従イ、時ノ変化ハ走馬灯ノ如ク、昨ニ流行セシ飛白ハ今ハ早縞織ニ変スル等、打撃ノ少カラサルモノアルニ鑑ミ、大丸代表ハ染織ニ代フルニ染形ヲ以テ、世人ノ嗜好ニ応ズべク決意シ、盛ニ白紬ノ製織ヲ試ム」(白峰村史より)

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