白峰は土地の殆どが傾斜地であり耕地が少なく、その上冬期の積雪が3〜4mが普通で12月の上旬から翌年の4月下旬まで雪に閉ざされるのが昔からの常という厳しい環境でした。耕地の少ない土地で集落を継続するときの難問は、やはり増加する人口に対する食糧対策であり、岐阜県白川村にみられる大家族制度も、その一つの解決方法だったのではないでしょうか。白峰の民はこの対応として、4月下旬雪解けを待って自宅より十数km離れた山間地へ入り、出作り小屋と呼ばれる家に家族全員で移り住み、山林を切り開き農地を開懇し穀物や野菜を栽培、桑畑を作り 蚕を飼育し繭を出荷して現金を得、10月中に耕作を 終え11月中旬に収穫物を背負って山を下りるという「出作り農業」を発達させました。
この出作り農業を可能にしたのは焼畑農耕の技法でした。その方法は長期の契約で賃借した山林の雑木を前年の秋(理想的には土用)に刈り倒し三~四尺の長さに切って枯らし置き、翌年5月末~6月初めの晴天の日に、早朝からこの雑木を並べて上部より火をかけ、順次下部の方へ引き下ろしながら全部を燃焼させました。このことにより、この土地は肥料となる灰を多量に含んだ農地に変わり、何ら肥料を施すことなくただちに種子を蒔き収穫することが可能となりました。しかし、木灰と自然の残した有機肥料以外、肥料を施さないこの方法は二年目からは著しく地力が低下し三〜五年程で使用不能となるため、この農地を放棄し次の農地へと移り、各自が財力に応じて三十年前後で最初の土地に返るという自然に逆らわない環境保全的農業を生み出しました。また、焼畑農耕の収穫物は、家族が必要とする量以上に生産する者は稀であり、税金その他の必要経費に支払う現金については、主として養蚕に求める者が多く、出作り者にとって養蚕は生活の必需作業でした。またその屑繭が牛首紬を育てました。
一般の村人は生活必需品を購入するため村内有力者より前借りをしたと云う、当時の養蚕業に携わる村人の様子を (織田利太郎家文書官金借用書類)により識ることが出来ます。「本村重立タル者ヨリ養蚕家へ、該仕入ノ為前年ニ金穀貸渡シ、負債主ハ翌年ニ至リ、該年ノ成繭若ハ製糸ヲ以テ債主ニ返済ス。若シ養蚕不作ナレハ、債主ハ幾年間ニテモ金穀物ヲ貸渡シ、以テ養蚕為営、必ス成繭若クハ製糸出来ノ時ヲ待ツテ決算ヲ遂クルノ慣法」と記されています。(白峰村史より)